禅にふれる

禅とは

禅のたいせつな心をあらわした言葉に「心は鏡のごとく」があります。
鏡は美しいものも汚いものも、大きなものも小さなものも、すべてをそのままの姿で映します。ありのままを受け入れます。決してそのことにとらわれることはありません。
禅の世界では、鏡のような心の持ちようこそがとても大事だと考えます。

私たちは、日々起こるさまざまな出来事や人との関わりにおいて、心がとらわれます。
時には自分を見失うこともあります。
しかし、鏡が映すごとく、すべてのことを人生のひとこまとして鏡のように受けいれ、そして、とらわれない心を持つことが禅の世界では大切なのです。
たとえば、山歩きをしていて、鳥のさえずりや小川のせせらぎを聞き、色鮮やかな新緑の木々を眺め、その香りをかぎながら、まるで自分が木々であり、自分が鳥であったり、自分が小川であり、山そのものであったり、そこに溶けこんだ自分に気づくことがあります。
別々の世界が別々の世界のことではない。
自分の心の相対するものがひとつの深い幽玄な世界になる。これを主観と客観がひとつになるといいます。その体験が禅の世界に通ずるものがあります。

私たちは自分と、自分の外にある世界を分けて考えがちですが、自分と自分を取り巻く世界を全部ひっくるめて、ひとつのものであり、自分自身であると考えます。
つまり、山の中で自然と溶け合った状態こそが本来の自分なのです。
人はみんな自分のものさしで相手をはかろうとする。
ものさしとは、こだわりであったり、先入観や執着心、嫉妬心、虚栄心などです。
しかし、自然にはなんのはからいごともありません。ただ、ありのままそこにあります。
ですから自然とひとつに溶けあう体験ができたとき、
それはあなたがものさしを取り払った世界なのです。
禅が説く大切なものの見方であり、心のもちようです。心のありようです。「本来の面目」であります。

春は花 夏ほととぎす 秋は月
冬雪さえて冷しかりけり (道元禅師)

「裏を見せ表を見せて散る紅葉(もみじ)」という句があります。
これは禅の教えの「生死を生きる」に通じるものがあると思います。
私たちは「どう生きるか」「どう死ぬか」を考えます。
しかし、生と死は別々のものではなく、常に共にあるものです。
生きていくことは死んでいくことでもあります。
生死する自分。まるで紅葉の裏と表のように。

私たち多くの人は豊かな生活をもとめ、そのために物足りなさを物足りようと一所懸命努力しキャリアを磨きます。
これは生存基盤による生き方です。
一方で、禅では、命あるものは生まれて生きて、死んでいくという、この大宇宙の中のひとつの生命体としての自分がある。生死する自己のいのち、これを生命の実物ととらえる。
ただ生命体として生死する自分に価値があるのです。
いわゆる生命基盤に立って考えます。
そして、大宇宙の中の一つの生命体としてある自分を行じているのが坐禅です。
生命体としてのありのままの本来の自己に立ちかえった姿なのです。

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